小林昌平「その悩み、哲学者がすでに答えを出しています」を読んで

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感想

日本では、「和を以て貴しとなす」という言葉が示すように、他国と比べて協調性を重視しています。その協調性により組織は能動的であり、無駄がなく、しかも有機的。

一方、組織の内側では、好むと好まざるにかかわらず、個人に対し同調圧力が働くことになります。その結果、組織の構成員は他人の目を気にしたり、他人と自分を比べたり、他人から認められたくなる。

その環境下では自然なことですが、行き過ぎると息苦しい。この悩みに対する答えを哲学者達が述べています。興味深いのは、違う表現で同じことを指摘していること。つまり、「目の前のことに集中し、自分を忘れること」です。



本書からの引用

 

 将来の不安

アリストテレスの言う「キーネーシス的な行為」は、たとえば、今の自分の楽しみを犠牲にして、将来の自分のために備蓄をするような行為。この「キーネーシス的な行為」こそ、計画的で、将来への不安を減らすものではないだろうか?

その反対に「エネルゲイア的な行為」は、刹那の快楽に任せて、その瞬間その瞬間に生きるために将来に不安を積み残すのではないか?そう感じた方もいるでしょう。しかし実際にはその逆なのです。 

結果はどうあれ、無欲にプロセスの作業を楽しむ。手抜きをせずに、一生懸命楽しみ切るという人こそ、すでに成し遂げた成果になることです。

 

 毎日がつまらない

仏道の目指すところは「自己とは何か」を本当の意味で理解することです。それは自分を何かと定義するようなことではありません。実は、自分を「忘れる」ことなのだと道元を解きます。

そしてそのために体を動かす雑務というのは、手が触れたものと一体になることで自分を忘れることができる。 自分のことを考えるのがどこかに行ってしまうような、「自意識が小さくなる」効果があります。

掃除すること。炊事すること。トイレに行くこと。歯を磨くこと。これら日常茶飯時は座禅と同じ効果(=自分を忘れること)を、よりとっつきやすい形でもたらすことになるのです 。

 

 お金持ちになるには

私たち人間を突き動かすエンジンがあるとしたら、それはお金そのものではないというのがポイントです。勤勉になれる動機を、お金以外のところに見つけ出したのがウェーバーの発見でした。

それは幼少期より克服し難い「他人への劣等感」なのかまるかつて自分を軽んじた他者への「リベンジ精神」なのか。「生きている実感が持てない」とか、「自分が何者にもなれないのでは」といった「漠然とした不安」なのか。

他人が嫌がる面倒な作業も苦にならないどころか好きでたまらないといった「無駄な情熱」かどうかはたまた「病的な適性」か。

 あなたにとっての尽きせぬエネルギー源、否応なく仕事へと駆り立てる自分版の「予定説」がどこにあるか、胸の内を探るところから始めてみるのが良いのではないでしょうか。

村上春樹「騎士団長殺し 第1部顕れるイデア編」を読んで

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感想

何気なく手に取った本を開いてみると、短文で構成され、複雑な構文はなく、読みやすい文章だった。読み始めると色々な伏線が現れてくるが、読み進むうちに見事に物語として収まっている。まるで内村航平体操競技の着地のように、ストッとフィニッシュを決めている。しかし、見事に収まった伏線を組み合わせることによって生じる新たな疑問は、次の編への誘い水となって私の読書意欲を搔き立てる。小説は滅多に読まないけれど、素直に引き込まれてしまう魅力があった。



本書からの引用

 

 夫婦の休日の使い方

週末や休日には私も絵の仕事を休み、二人であちこちに出かけた。美術展に行くこともあれば、郊外にハイキングに出かけることもあった。ただあてもなく都内を歩き回ることもあった。親密な会話の時間を持ち、お互いについての情報を交換しあうことは、2人にとっての大事な習慣になった。それぞれの身に起こった大抵のことは包み隠さず、正直に語り合った。そして意見を交換し感想を述べ合った。

 

 人を判断しない

「でもあなたは私のことを判断しようとはなさらない。違いますか?」言われてみれば確かにその通りだった。私は免色の言動や生き方を、何かの基準に得て当てはめて判断しようとしたことは一度もない。特に賞賛もしなければ、批判もしなかった。ただ言葉を失っていただけだった。

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感想

学ぶことは、知ることとイコールとは言えない。学ぶこととは、知識を得、理解すること。そして勉強とは、学んだ上で自ら問いを立て、それに対する答えを自ら考えることである。本書のタイトルである「勉強の価値」は、それ自体に没頭することで面白く生きていくことではないだろうか。 

勉強とは違うが、自分のオリジナルを作り上げていくのは楽しい。例えば車やバイクの改造をする人は、似た喜びを持っているのではないか。それを他人に見せて悦に入るのではなく自己完結をしていれば、本書でいう「勉強」に近いものがあると思う。




本書からの引用

 

 生きること自体が、他人の役に立っている

普通に生きていれば、それだけで他者の役に立っている。そういう仕組みを現代の社会は持っているのである。長い歴史を通して、人間が築き上げてきた仕組みだと言える。

 

 映像を使った思考

幸い、僕は子供の頃にはほとんど勉強というものをしなかったため、言葉で考えるという習慣がない。思考は、全て映像で行われる。現在は、文字を出力する作家という仕事をしているのだが、考えることは映像である。 

 

 勉強の満腹感

年齢を重ねるうちに、食べるものに好き嫌いが生じてくるだろう。自分の好きなものが食べたい、嫌いなものを食べる事は苦手であり、普通にさえ感じる。学校で毎日繰り返される授業は、それほどおいしいものではない、と分かるようになるのだ。こうなると当然食欲がわかないのと同じ状況になり、勉強することが億劫になる。 

 

 運動というアウトプットがない学校教育

食べるものを体にインプットする行為は、動物が生きていくためのエネルギー源を得ることが目的である。そして、例えば運動をすれば、そのエネルギーは消費される。 同様に、知識をインプットするのは、それをアウトプットするためだ。アウトプットして初めて、その知識が生きる。活かしたいから勉強をするのである。

中学生や高校生くらいになれば、それくらいの道理には気づくだろう。だが、学校ではインプットをするばかり。毎日次々と授業が繰り返され、頭にデータを積み込む作業を強いられる。 これは、「とにかく食べなさい」「どんどん食べなさい」に近い状況だ。

 

 人類は個人主義に向かっている

かつては、大勢で力を合わせなければできなかった労働は、機械が担うようになった。力を結集する必要はもはやない。みんなが同じことをするメリットは、完全に薄れている。それよりも、個人の才能をそれぞれに伸ばし、誰かが新しい創造や発見をすれば、その利益を大勢が享受できる、という社会になっている。 

社会の動向を俯瞰すれば明らかだが、人類は個人主義へ向かおうとしている。

 

 人間関係の基本

意見が違うけれど、お互いを尊重するということは、非常に大事な、現代的な人間関係の基本であるけれど、日本人はこれを苦手としているようだ。

意見が違うと、もう仲間ではない、反対されると、人格まで否定されたような感じになる、という感覚を多くの人が持っているように観察される。

このような価値観が生まれるのも、「みんなが一緒になろう」という教育が行き過ぎている結果ではないか、と僕は感じている 。

 

 賢者と愚者の時間スパン

ただ、子供は大人よりも経験が浅く、また長い時間を想定した未来までは思い描けない。個人差があるけれど、比較的近い未来の自分が得をする道を選ぼうとする。目の前にあるケーキの取り合いをするのは子供であり、お店はケーキを譲ることの利を計算できる。

賢い者と愚かな者の差も、突き詰めれば、この想定する未来のスパンの差にすぎない。

 

 質問が示す自分の知性

答えることよりも問うことの方がとてもずっと難しく、またその人間の能力が試されているのは確実だ。国会中継でも、「馬鹿な質問をしているな」と思うことが多いのでは?
おそらく、質問する側は、自分が試されているとは認識していないから、ますます無防備になる。だから地が出やすく、その人物を見極めやすい。

 

 質問内容で、理解度がわかる

勉強でも、これは全く同じだ。答えることばかり考えている人は、行動しない。先生に質問できるのは、勉強をしてきたものだけだ。勉強しても、理解をしていても、また分からない事、知りたいことがあるから、質問をする。そのレベルまで達することが、勉強の目的なのだから、問題集を解いて、おしまいではない。 

 

 老人の特徴

老人になると、ほとんど考えないようになる。 

 

 勉強の価値

大人になり、仕事もリタイアして老人になった時、勉強はどんな役に立つだろうか?
その疑問に対する答えは簡単だ。楽しいから勉強をするのである。勉強するために時間も、また資金も消費する。これは「無駄遣い」だろうか? 

森博嗣「なにものにもこだわらない」を読んで

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感想

拘ることは感情的になること。拘らないこととは、感情ではなく理性で判断することであり、頭の中で自由に発想することと言える。後から振り返ると、周りの雰囲気に流されてしまい考えたようで実は考えていなかったこと、に気づくことがある。もしかしたら、気付かなかった方が実は幸せかもしれないけれど、後から気付いてもサラリと自由な心でいたい。

本書の「何物にも拘らない」ことは一つの心のアイテムになりそうだ。読んでいるうちに、ひろさちや氏やpha氏と共通するものを感じた。また、生きている今を「ロスタイム」と著者が受止めているのは、拘らない生き方をする上で肯定的だと言える。




本書からの引用

 

 何事にも拘らないとは

実は、「何事にも拘らない」という、この本で掲げたポリシーは、若干誇張された表現であり、実際には「全てに拘るわけではない」という部分否定の意味合いが含まれている。 

 

 人生の楽しみ方

どうせ生きている間しか考えることはできないのでから、できるだけ考え、自分の楽しさを見つける、あるいは作り出すことが、僕が目指したい方針である。そのためには、何事にも拘らない方が頭で考えるチャンスが増え、何かを思いつくきっかけにもなる。そして結果的に、思いもしなかった楽しさを見つけることができる。これまでにも、僕はそんな楽しさにたくさん出会うことができた。 

 

 命についての考え方

現在はロスタイムであり、いつ死んでも良いと思ってるし、もちろん自殺をするつもりはなく、どこかで野垂死にすれば、それで結構だと考えている。

 死ぬときに、「ああ、生きられて楽しかったな」と思えれば、それで十分だろう。それ以上に何を求めるというのか。

 

 仕事とは

仕事とは、やりがいが見つかるとか、元気を出せとか、そんなことはどうだってよくて、やりたくないことをするから賃金がもらえる、それが仕事というものだ。 

 

 支配する側が用意する楽しさ

支配する側は、「楽しいですよ」と誘って、大勢を拘束しているのだ。 手軽に楽しめるものを見せて、その代わり金を取る。確かに、金を払えば、一時の楽しさは得られる。でも、その金を稼ぐために、時間と労力を失い、疲れ果てるほど働かなければならない。一時の楽しさはたちまち消えてしまい、金も消えてしまう。結果として、時間と労力が失われた分、個人の未来は目減りすることになる。 

 

 買わされている

言葉は悪いが、金というものは、自由を作る可能性を持っている。これを自分のために使えば、自分が自由になる。出来る限り、売り出されている楽しさを買わないこと。自由になれば、それとは比べ物にならないほど大きな楽しさを味わうことができる。そして、自分で作り出した楽しさは、あなたが生きている間、消えることがない。 

 

多くの人達を見ていると、「拘る」というよりも、「拘らされている」ようだ。拘ることに投資している。ブランドもののバッグは、後々高く売れる、と踊らされて、結局は投資しているようなものである。 自分で作った拘りではない、買わされた拘りだ。

 

 一人になった時の楽しみ

だから、一人の生活になったら、せっせとブログでも書いて、毎日楽しくて仕方がない、遊び呆けていますよ、とレポートしておくのがオススメだ。 

 

 社会で生きていくために必要な協調性

社会で無難に生きていくには、結局は人間関係を上手にコントロールすることに尽きるようだ。 「自分第一」を押し通していては、結果的に損をするような社会の外圧があることを学んで知っている。その外圧とは、基本的に争いを避ける目的から自然発生したものである。人間関係がこじれ、喧嘩をして争っても、お互いに利は少ない。他者の存在を認め、できれば協力し合う。 現代の人間社会は、大体そうなっているはずだ。 

 

 自分に拘らなければ、他人に優しくなれる

では、どうすれば良いのか。それは「自分にこだわるな」という意味になる。誰かに腹を立てるのは、自分にこだわっているからなのだ。自分という存在にこだわっている。尊厳なのかプライドなのか、そういうものが傷つけられたから腹を立てる。そして、きっと相手はそんなこと当然気にもしていない。だからますます腹立たしい、という方向へ考えず、相手は別に悪気があってしているのではない、自分が自分にこだわっているから、特別な感情を持ってしまったようだ、と解釈すれば良い。

このように、自分にこだわらないようにすると、自然に他者に対して寛容になれる。 簡単ではないが、理性でそれを行うことが大事であり、常に自分に言い聞かせるべきであろう。 

「問題は英国ではない、EUなのだ 21世紀の新・国家論」を読んで

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感想

この本は、英国がEU離脱を決めた国民投票の年に出版されました。
EU離脱の原因は、英国ではなくEUにある、と著者は言います。EUの問題とは、ドイツがEUの中で経済力をつけEUを支配していること、さらに強くなるため移民を積極的に受け容れていること、だと言います。それがEU諸国の格差問題、ドイツ国内の移民による社会問題に発展すると警鐘を鳴らしています。

また、著者のエマニュエル・トッドは人口学的見地からソ連の崩壊を予言しました。その切り口から見ると、中国は西側が恐れるような帝国にならない、と予言しています。その理由は、①高齢化が急速に進んでおり社会保障制度が追い付いていないこと、②GDPの40~50%は公共・設備投資であり、個人消費が西側の半分であるため、設備投資が減速すると中国経済が失速すること、と述べています。



本書からの引用

 

 英国がEU離脱した理由

イギリスは「ドイツに支配されているヨーロッパ」に対して立ち上がったのです。イギリス人自身は、この事実に必ずしも自覚的ではないかもしれません。

 

 ドイツの危うさ

現在のドイツ外交はリーズナブルなものとは言えません。パワーを求めています。日本もドイツと同じように出生率が低く、人口減少に悩んでいますが、日本はその意味でパワーを追求しているようには見えません。移民を受け入れようとしていないからです。その点ドイツは大きく異なります。ドイツは、いわば好戦的に、絶え間なく労働力人口を獲得しようとしています。 

 

 ドイツ人から見たアメリ

私見によればドイツ人は、第二次世界対戦における米国の勝利を正当なものとみなしていません。というのも、真の勝利は地上戦における勝利であり、その勝利はロシアのものであったということを、そしてナチスドイツと熾烈に戦った連合国側兵士の90%以上がロシア人だということを、ドイツ人は知っているからです。

 

 中国悲観論(人口)

私が中国の将来を悲観するもう一つの理由は、出生率にあります。中国の出生率は急激に低下しました。 出生の男女比が異常なのです。 超音波検査で男女の産み分けが技術的に可能になり、女児を避け、男児を選好する、かなり歪な堕胎が行われているのです。人口学者であれば、中国の将来を楽観視などできません。 

中国では現在、猛スピードで少子高齢化が進んでいます。まだ国家全体が豊かになっていないために、年金をはじめとする社会保障制度の整備もできていないまま、高齢化社会を迎えてしまった。これが近い将来、社会不安を増大させることは間違いありません。 

 

 中国悲観論(経済)

経済にもアブノーマルな点が見られます。 GDP に占める「インフラなどの設備投資」が40から50%と異常に突出しているのです。この過剰な設備投資が、いつバブルの崩壊を引き起こしてもおかしくありません。 

「MUJIが生まれる『思考』と『言葉』」を読んで

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感想

MUJIは日本の茶文化の「質素は豪華に劣ることではなく、簡素の中にある知性とキメの細やかな配慮」を商品化したものだと感じます。私の周りでもスッキリと暮らしたい、という人をよく見かけます。そしてスッキリとした生活をするために考えられた商品が、その人たちを引き付けるのだと思います。

この考え方は、商品のイメージと実際の使い勝手や満足感と一致しなければ、一気に失墜する危うさを持っています。だからこそMUJIは、時代の流れの中で、「シンプルだけど便利だね」という支持をえるため、変化し続けているように見えます。
この会社は、社是のように明確な目標がないため、社員は常に「MUJIとは何か」を考え続けているだろう、と思いました。まちづくりやホテル等の参画は、その表れではないでしょうか。



本書からの引用

 

 お金をもらった勉強とは

課題や困りごとを見つけ、役に立つ仕事を始めだすと、自分たちの色々なスキルをもっともっと高めなければ役に立てないことがたくさん見てきます。その足りないスキルを皆でどんどん高めようと、全員で勉強しています。そして、この勉強や教育は、お金を払って勉強より、お金をもらった勉強の方がはるかに身につくことも勉強しました 。

 

 自己家畜化のおそろしさ

私は「自己家畜化」という言葉にひときわ共感したのですが、その言葉から社会を見ると問題の本質が見えてきます。
「家畜化」された動物は自然の中で生き抜く能力が退化していて、自然の中に戻しても行くことができません。

 

 消費と快感

消費っていうのはピーナッツ食べるのと同じで、お腹が空いているから食べるんじゃない。食べる瞬間の快感のために食べてるんですから、止めることができない。食べたとたんに快感は終わってるんだから、快感を持続させるためには食べ続けるしかないわけで、消費もピーナッツと同じでしょう 。

 

 品質と付加価値のちがい

時代的に買う側の意識は「安かろう悪かろうかろう」を敬遠し、「少々高くても品質が良い」ものへと移行していきました。ただ、多くのメーカーはその「少々高くても品質が良い」イコール「付加価値が多いから少々お高い」と解釈していました。 

 

 効率の先に豊かさはあるのか

例えば、どうしても企業や組織では「効率が良いこと」「生産性が高いこと」「利益率が高いこと」が善とされますが、会社の、あるいは店舗のすべてをその考えから積み上げてしまうと、とんでもないことになります。効率だけを考えると豊かさが無くなるのです。

 

 死ぬまでの暇つぶし

人は必ず死に、会社は潰れるようにできています。人生100年と言われる時代、私たちは死ぬまでの長い間を、暇つぶしをしながら生きています。暇つぶしには色々な種類がありますが、嬉しい暇つぶしの中に、誰かの役に立つことがあります。言い換えれば、それは仕事です。そう、「どうせ暇つぶしの仕事なら当然誰かの役に立つことを楽しくやろうぜ」というのが良品計画の主義です。

 

無は是れ無に非ず即ち是れ無なり

無印良品とは何かという問いに対する、確固たる答えはありません。それと同じように、良品計画の仕事は、いつまでも完成しません。

 

 茶文化とMUJI

茶とは本来、質素が豪華に引け目を感じることなく、貧しさの中に秘めた知性なり感性なりが誇りとなり得る世界なのである。そうした精神文化を世界に発信し、別の価値体系を確立できれば、それほど多くの資源を使うことなく、自ら美意識を誇ることができる。

 

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感想

欲しいから買うのではなく、買物をしたいから欲しくなる、そんな時ってありませんか? 
人は脳の反応により、行動させられている時があります。特に買い物をする時はそれが顕著です。経済的な活動は、合理的に行動すると従来は考えられていましたが、合理的と言えない消費活動を人が行うため、経済学と心理学を合わせた行動経済学が発展してきました。この行動経済学マーケティングに主に活用されています。

例えば CM などでよく目にするものを購入したり、有名人の CM に影響を受けたり、少ないサンプル数であっても高い割合であればそれに引きずられたり、車を買う時など見栄でグレードが高い方を買ったりします。 

私も自転車のフレームや、車の買い替えに心をときめかせています。買いたい気持ちが先行しているからこそ、モノを欲しくなっているのかもしれません。
こんな時に行動経済学に基づいたひと押しがあれば、買ってしまうのかもしれませんね。

 本書からの引用

 

確率を信じてしまう

バナナを1か月毎日食べ続けた5人のうち4人の体重が3 kg 減。ですが、5人ではサンプルが少なすぎて、バナナにダイエット効果があるとは言えません。しかし4/5という割合のインパクトが強い為、思い込みが生じてしまうのです。

 

 人は理由をつけたがる 

ある調査で胃がんの出現率を調べたところ、人口300人の農村は都会より胃がんになる確率が高かったと言います。これを聞いた時「田舎では飲酒や喫煙が習慣化していて、医療も充実していないから」と考える人もいるでしょう。しかし、事実は異なります。理由は単純で、農村の方がサンプル数が少ないから極端な結果が出ただけなのです。人は、物事に理由をつけようとする傾向があります。 

 

 ステレオタイプで判断したがる

代表的(典型的)なものだけを見て、全体も同様であると結論づける直感的な考え方をする。正しく計算すれば出てくるはずの確率を無視して代表的な面だけを見て判断する、物事のある一面だけを見て判断するといったものがあります。
すべての事柄に様々な情報を加味し、システマティックに考えていては時間も手間もかかりすぎる。そこで、人は代表的な事柄だけを見て判断を下すのです。

例えば「身だしなみの良い人=能力の高い」「面白い人=性格も良い」「可愛らしい顔=性格も可愛らしい」人物や状況を評価する際、ある面が優れていると、その他の面も優れていると思い、全体を高く評価したりする。 

 

 バカの壁

人間には自分の意見に対する反証材料を集めようとせず、提示されたものを無視する傾向があります。 自分の考えや思い込みに固執し、肯定的な情報を集めてしまうことを「確証バイアス」と呼びます。 

 

 損失回避性

「儲けた時の嬉しさ」と「損した時の悲しみ」は、同じ金額でも心理的インパクトが異なります。 利益を得た時よりも、同じ金額を失った時の方が大きく反応します。
額が同じなら、「儲けた喜び」より 「損したダメージ」の方が約2倍大きい。だから、人は損失を回避しようとするのです。